来談者中心療法と真相心理面接

 現在臨床心理士が行っている面接法は大学院で教えられる来談者中心療法だ。これは簡単に言えば、クライアントの立場になって話を聞くことで、相手の気持に沿ってそうそうとうなずきながら話を聴くのだ。そんなことは俺だってできると村上春樹は『女のいない男たち』に書いている。普通人は自分の立場に立って相手の話を聴くから、相手の立場に立って聴くだけでも専門的な仕事と言える。相手の立場に立って話を聴くと聞いている間、全部相手の話になる。共感的に聴く、つまり共感的に受容すると、相手の悩みは自分にものりうつってくるから、クライアントと同様こちらも苦しくなる。本当に深く共感すると、臨床心理士も悩み苦しむ。そのために臨床心理士はいつも何らかの身体症状を抱えていることがあるとユングが何処かに書いていた。実際事例研究会で難しい事例を長時間聞いた後では、帰りの車の運転に気をつけたほどである。
 しかし、長年経験を積んでいると臨床心理士もそういう苦労に慣れてきて、大して苦労なくやって行けるようになる。それでも専門的な仕事になる。そういう仕事をしているとあまり研究や勉強も必要で無くなるらしい。スクールカウンセリングの仕事は共感的に話を聞き、子どもや親の家庭の情況を報告していると学校側との協調関係も保たれるので、うまく仕事が進む。残念なのは大した仕事ではないから学会でもスクール・カウンセラーの事例報告がほとんどないことだ。研究が進まず、進歩がほとんどなく将来が心配だ。
 来談者中心療法では一般にはそれほどいのちをかけて話を聴くことにはならないから、事例も程々に経過していき、特に研修を積む必要がないのではなかろうか。だから、現在では、臨床心理士の研修意欲がかなり低下し事例研究会はどこも活気がない。
 私は檀渓心理相談室で有料の心理相談を行っている。学校で臨床心理士に相談する人は無料で話を聞いてもらえるが、私のところに来る人は一回あたり8千円も料金を払わなければならない。原則としては50分8千円だから、1分あたり150円になる。相当に高額な料金だ。そういう高額料金を取る私はクライアントにそれに相当するものを与えなければならないと思う。
 そのためにクライアントの立場に立つだけでなく、生活歴や家庭環境、父母の親のことまで話を広げ、悩みの真相を取り上げて考えてもらう。こういう真相を暴き出す方法は酷いようだが、一般的にはそこまで話を広げると、個人が抱えている問題は祖父母の代から用意されてきていて、家の伝統や雰囲気に一番敏感なこころやさしい人が問題を背負わされていることがわかってくる。家の問題を背負わされていて、その責任はないが、その問題の解決はその人がしなければならない。対人恐怖や不潔恐怖など神経症や不登校になるほどの対人関係の弱さの問題など治すことはできないから、それらの重荷を抱えてどう生きていくかを考えることになる。病気や問題を治すことが目的でなく、それらを抱えてどう生きていくか、困難を切り開いていく勇気や忍耐力をつけることが課題だ。このように人生を切り開いていくことを考えるので、治療法でなく真相心理面接法ということにした。
 真相面接法をた家庭環境や経験、特に心の傷について思いをいたし、しかもそれを人に打ち明ける勇気がいる。教育分析を受け、分析家に話を聴いてもらうだけでなく、周囲の人、更には公にする勇気が必要ではないかと思うようになった。小説家が世間的に力があるのは、自分の内面を赤裸々に物語にして公にしているからだ。
 来談者中心療法の事例報告は人生の深みがなく面白くないが、真相面接法の事例はクライアントの人生が出てくるから心に響く事例になる。それはよく出来た映画や小説以上の感動がある。
真相面接の良いところは難しく長引いている問題ほど問題の真相を明らかにすると面接が続くことだ。仕事のやりがいもある。だから、私は毎日仕事をしていても飽きない。有意義な仕事をしているという自負があり、今の料金でも安いくらいだと思っている。でも、私の仕事は宗教や占いとは違うので、世間的にこれくらいで丁度良いと思っている。ただ6時以降の面接では割増料金を頂いている。でも、出来れば6時以降は仕事をしたくない。身体もたましいも休息態勢に入って要ると思うからだ。

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たましいについて

たましいについて
カウンセリング・だんけ 西村洲衞男

 河合隼雄先生は「たましいの復権」というエッセイで、性の抑圧がなくなった現在最も抑圧されているものはたましいではないかと書いておられる。
 現代はお笑いが流行っている。河合先生もよく冗談を言って人を笑わせておられた。
 お笑いは人々をホッとさせ、我を忘れる時を与えてくれる。みんなで笑うとほっこりするのだが、笑いの世界に入って一人になっているのではないだろうか。笑いで人とつながろうとするとしょっちゅう笑いのタネを考えておかねばならない。お笑い芸人はいつもいつも寸暇も惜しまず考えている。ある落語家が一日のスケジュールを円グラフで書いてテレビ番組で見せていた。その記憶によると、15分刻みでゆっくりしている時間がない。お笑いの萩本欽一さんもお風呂に浸かると気持がだらけるのでシャワーしか浴びないと語っていたことがある。お笑いのいのちを生きる人は焼けたフライパンの上の水玉のようにいつも弾けているのではなかろうか。そういう状態の心ではたましいはどのようになっているのであろうか。
 冗談を言って人を笑わせたときの河合隼雄先生はしばしばすごい形相になって別なことに集中しておられた。その場の人々は河合先生の冗談を聞いて笑っているのに、先生はまったく違う深刻な世界に目が向いているので、それを見た人はぎょっとしてその姿が忘れられず、人に言わずにはいられないらしい。このような様子を何人もの人が書いている。
 河合先生の冗談は自分への視線を回避するためのもので、ご自身は自分のいのちにかかわることに思いを巡らせておられたのだろうと思う。
 先生が書かれるものはいのちにかかわるものだったと思う。いのち、それはたましいのことである。
 愛や憎しみといった感情レベルの心ではなく、愛や憎しみを越えたところにたましいというこころがある。心はコロコロ変わるからこころというのだという説がある。確かに愛は憎しみに変わり、憎しみは愛に変わる。大事なのは愛や憎しみの背後にあるいのちである。いのちは目に見えないし、これと言って掴みどころもない。河合先生はたましいをつかむには物語しかないと考え、後に中世の物語文学の研究に力を注がれた。
 たましいを掴む方法は物語だけではない。和歌も俳句も、歌謡も舞踏も、人々は沢山の表現方法を用いてきた。しかし、それでも余程修行しないとものにならない。
 それらは今世の中に満ち溢れている。テレビに展覧会や出版物の中にあふれるほどあって、あふれるものの中に私たちはたましいを見失っている。
 生き物が死ぬとたましいがなくなったと感じられる。たましいが離れて出て行ったら物になっている。たましいが抜けると身体は抜け殻になる。
 生き物から抜け出たたましいはどうなっているのか。たましいに個別性などあるのか。たましいは生き物の中にいる間はそのものの名前で生きていてあるとわかるが、抜け出てしまうと名前のついたものの消滅とともに行方知れずになってしまう。万葉の昔には山にたなびく雲の中にたましいを見ていた。それは火葬の煙が雲になったものだ。たなびく雲のようなものだから普遍的にいつでもどこであると言って良いのではないか。
 河合先生はユング派の分析家ヒルマンの言葉making soulを引用して、たましいを自分の中に養ってそれをあの世に持っていくと書いておられる。そのたましいも煙と化すならたましいもあの世へはもって行けないのではないかと私は考えている。ただ、河合先生の業績や思い出を心に留めている私たちは先生のたましいを受け継いで生きていくことはできる。たましいは先輩後輩の関係や家の伝統として生きている。椿は椿らしく牡丹は牡丹らしく生きている。その中には椿の、あるいは、牡丹のたましいが生きている。そう考えるとたましいは生物学的なものであると考えた方がよいのではないかと思う。
 河合先生に初めて会う前に西から太陽が登る夢を見たロサンゼルスのユング派の分析家シュピーゲルマン先生が、河合先生のお墓参りをされたとき、晴れた空に輝く太陽に丸い虹がかかった。それを見たシュピーゲルマン先生は河合が天国から挨拶に来たと感動されたという。その日輪は墓参に同行された樋口和彦先生が写真に取られ、その写真は滝口俊子さんの『夢との対話』に紹介されている。河合のたましいが天国から挨拶に来たというのは不思議なことであるが、その経験はシュピーゲルマン先生の心の中の経験であって、私たちは驚きをもって聞くだけである。シュピーゲルマン先生はそれだけたましいを感じ取れる人だったと思う。
 たましいこそは分別のない、名前が付けられない、個別性の無い、しかもいのちのある存在である。たましいはこの世界には充満していて、いのちがある。それは井筒俊彦の意識の形而上学で述べられた真如の世界ではないか。意識、つまり個別性を認識する能力で世界に充満しているたましいを感じ取る力を養うことはできるのではなかろうか。
 牡丹が牡丹らしくあるために、自分が自分らしくあるために、このいのちを含んだたましいの世界に触れる必要がある。私たちは夢や箱庭を通じてそのようないのちにかかわる仕事をしているのではないかと思う。

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たましいのいのち

たましいのいのち
カウンセリング・だんけ 西村洲衞男

 個人的なことを書いてすみませんが、今月始め姉があの世へ旅立ち、その後うつになって、自分のことは何事も後回しになって滞っているように感じられます。亡くなった姉は6人きょうだいの4番目で、私にとっては始めてのきょうだいとの別れというかんじです。その上の姉は私よりひとまわり年上で、6年前に亡くなったのですが、家事や子育てに忙しかった母に代わって私の世話をしてくれたらしく、母のような感じがしていました。
 今度亡くなった姉は私が河合隼雄先生の近くにいることを喜んでくれました。たましいの存在や生きることの意味を深く追求するところがあって、その悩みを深めることができず、実存うつ病になっていたと思います。知り合いの先生にもお世話になりましたが、問題を言語化することはできず、行為化して出すこともできないで、年とともに消極的な生き方が影響したのか、パーキンソン病的になり、発語が不明瞭になり、嚥下困難になって、遂には喉からの栄養補給も受けました。最後は水分の点滴補給だけになって半月ほど生きました。姉のたましいは心の底で人生を生きようとしていたのだろうと思います。
 後添いに入ってできた一人息子は、大学を中退して音楽の道に入り、姉を驚かせました。音楽の道に入ったものの、15年経って演奏家としての自分に限界を感じて、アメリカに渡り、ギター制作の職人になりました。今では日本の狭い家や堅苦しい伝統的な文化から解放され、家も環境も広々としたアメリカの自由な世界に生き、自分にふさわしい道に生きがいを感じています。母親ができなかったたましいの実存的な生き方を息子が実現していました。たましいのいのちは世代を越えて親から子へ受け継がれて行くのだと思います。生まれて死んでいく人間の個人的な命と、世代を越えて生きているたましいのいのちの違いを感じました。たましいのいのちはこのように親から子へ、人から人へ受け継がれていくのだと思います。
 姉の死によって私が少しうつになったのは、姉と同様に実存的な生き方を志向していたせいだと思います。甥と同様に、姉のたましいが私の中に入って来れば私のうつは治ると思います。以前おばあさんの死を契機に登校できなくなった子どもがありました。その子はおばあさんの死によって生きる支えを失ったように感じたのでしょう。おばあさんから母親へ心の支えが移し替えられるようになって、子どもは学校へ行けるようになるのです。喪があけるというのは見失ったたましいを取り戻すことだろうと思います。
 今ではこのようなことを書けるようになって、私もうつから解放されたのだろうと思います。

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最初の先生

最初の先生
カウンセリング・だんけ 西村洲衞男

 A先生が久しぶりに訪ねて見えた。A先生はある街の中心にある絵画教室で美大受験生の指導をしておいでになる。指導を受けた生徒さんたちは美大に進学し、卒業してそれぞれの道に進み、美術系の専門的な仕事に就いている人もあり、帰ってきて自分がやっている仕事を報告してくれる。自分が育てた人が社会に出て、今こんなことをしていると報告してくれるのは嬉しいことである。A先生は素敵な先生で幸せだと思う。
 昔々、音楽のある先生が老年期に入ってうつ病になり、ある精神科に受診されて言われるには、自分は今活躍している演奏家を育てたけれど、その人達は音楽大学を出て、音楽の本場ヨーロッパに渡り、そこで専門的な指導を受けて演奏家になって日本に帰って来た。日本で演奏会を開く時、パンフレットにヨーロッパの先生の名前は出るけれど、その人を最初に指導した自分の名前が出ることはないので寂しいと漏らされたそうである。その話はいたく心にしみた。
 河合隼雄先生はいつも勉強し、毎日毎日朝6~8時2時間原稿を書いて、その積み重ねで沢山の著書ができた。その発端は高校時代の国語の先生との出会いにあった。その国語の先生の授業が大変面白いので、先生のお宅に伺い、先生の授業は何故面白いのですかと尋ねると、先生は、自分は毎日毎日勉強していると答えられたという。そのことは何処かに書いてあるはずだ。河合隼雄先生は毎日文章を書くために毎日毎日勉強しおられた。一度学会大会の控室に先生をお訪ねしたとき、先生は本を熱心に読んでおられた。
 河合隼雄先生がホーナイの弟子近藤章久先生をお招きしてセミナーが行われた時、その頃丁度著書を出版された近藤先生に、先生はいつ原稿をお書きになるのですかと尋ねられた。近藤先生は仕事が終わってからですと答えられたように思う。河合先生は仕事を終え家に帰って夕食を取ると、新聞に目を通し、テレビでスポーツニュースを見たりして中々机に向かうことができないとこぼしておられた。その後、学生たちとマニラに調査旅行に行かれ、朝学生たちが8時半頃朝食に出てくるので、朝6時から8時までストーの『ユング』の翻訳をし、ひと仕事終わって何食わぬ顔でみんなと食事をするのが愉快だったと言われた。この時先生の原稿書きの時間が定まったのだ。一書を書き上げるというのは大変なことで、実際に本を書いた近藤章久先生の何かが影響を与えていたのだろうと思う。
 これらの例は最初の段階の先生の例である。
 何故こういうことを書くかというと、自分は今も先生と呼ばれることが多く、さん付けで呼ばれるのはご近所会とか病院の受付くらいである。もうそろそろ「先生」から解放されたい。
 私はカウンセリングをしていても先生をしているのではないか。私のカウンセリングを受けて臨床心理士なった人もある。20年以上も経って学会発表抄録を見ていたら昔のクライアントの名前があって、びっくりした。その方は私より偉いいろいろな人の影響を受けているので、私だけとは言えないけれど。私が家庭教師をしていた人は、私が大学院を出て経営学方面の仕事に就いたせいか、経営学部に進学したので、内心ヤバイと思った記憶がある。
 この時から自分が人に影響を与えるならしっかりしなければと思った。先に生きるものの意識の芽生えである。
 人生のはじめに、自分はこういう方面に進もうと考えているとき、最初の手ほどきをしてくれる先輩や先生があると、順調に初歩的な技術を憶えていくだろう。その指導をするのが最初の先生である。
 ある人が言うには、私はこの初歩段階の先生には向いていないらしい。
 私がスキーを習ったとき、緩斜面でスキーの履き方、方向転換や滑り方を少し習ったところで、かなり急な斜面の上の方に連れて行かれ、下まで滑って降りろと言われた。最初のカウンセリングでは、高校に入って勉強できないという男子生徒を担当させられ、一人でクライアントの話を聞くことをやらされた。数回の面接で幸い満足な結果で終わって、これで良しとなった。こういう具合に最初の手ほどきの指導を受けていない私は初歩の指導には向いていない。ただ、この道を生きることを一所懸命にやる、その一所懸命さが人を動かすのかもしれない。

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先生とその弟子

先生とその弟子
カウンセリング・だんけ 西村洲衞男

 孔子には沢山の弟子がいた。そのうち側近の弟子については、性格や能力について語っている。弟子もまた孔子にあの人はどうだと聞いている。一方、私の師匠河合隼雄は弟子と言える人を作らなかったし、側近の人について人物評価を聞いたことが無い。
 先生は冗談ではおっしゃっていた。小渕首相はいつも「すみません、すみません」と言っている。それは「I’m sorry」ということで、「I’m 総理」と言っているのだと。私には「西村君の時計は6時間ずれているけれど、三好さん(三好郁夫―メダルト・ボスの『夢』の訳者)のは手回しの時計だ」と言われた。実際三好先生は夢研の前日にお出でになったり、終わる頃にお出でになったりした。電車に一緒に乗っていて質問すると、5分位経って返事が返ってきたことがあった。本当に真摯に考えて対話をされる先生だった。
 箱庭療法というものを最初に河合隼雄先生のところに見に行った時、前日先生の前である人が作った箱庭を私に見せて、「この人はここが問題だ」と言われた。その箱庭を作った人は私も知っている人だったので、その問題点は的確な指摘であると納得した。このように河合隼雄先生は的確な評価をしておられたが、決して表には出されなかった。
 人物評価をした師(孔子)は弟子を作り、人物評価を表に出さなかった師(河合先生)は弟子を作らなかった。
 師匠河合隼雄先生は自分のことに一所懸命だった。だから人はみんなそれぞれ好きにすればいいという考えだった。弟子を作ろうとされなかった。
 私は内心、自分は弟子だと思ってきた。みんなもそれぞれ河合先生に自ら学んで、内心弟子だと思っているのではなかろうか。
 ではみんな自分の好きなことを追求しているのだろうか。みんなどうしているのだろう。学会で研究発表を続けているのは、コラージュ療法の森谷寛之先生くらいではなかろうか。河合先生に教えを受け、自分の道をしっかりと歩んで仕事をしている人は弟子といえるのではないか。河合隼雄とその弟子は今一人ひとり我が道を歩んでいて、互いに交わることはない。
 師匠河合隼雄先生が「あの人はこうだ」と言われなかったように、私たちは「河合隼雄はこうだった」と語らうことがない。寂しいことだ。この寂しさの中に河合先生も生きておられたに違いない。

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