世代間継承とその克服

世代間継承について知らない人も多いと思ったので書くことにした。

世代間継承とは親が持っている行動パターンが子供に受け継がれていくことである。その行動パターンを意識しようとしまいと受け継がれていく。

二十歳を過ぎた娘が母親のそばにいて離れない。離れると呼ぶ。その母親も子供の時母親に話を聞いてもらいたかったが聞いてもらえず、あるときからあきらめて一人過ごすようになった。結婚した相手は外で遊び暮らし中々家に帰ってこないし借金もできて別れた。その母親の曾祖母もとても甘えられるような人でなく、その孤独な姿が目に残っているという。4代にわたって母娘の甘え不足が続いているのである。

サトウハチロウのお母さんの詩に歌われた暖かくやさしい母のイメージは誰の胸にもあるが、実際の母親はそうとは限らない。そもそもサトウハチロウもそんな暖かくやさしいお母さんを経験できなかったから、二人の愛人を側に置きながら理想の母を詩として書くことができたのだ。父サトウハチロウの子供たちもさみしい思いをしたことを妹佐藤愛子は『血脈』に書いている。

親から子へ子から孫へ、親はその親、さらに遡って曾祖父母の代からつながっていて、親の問題が子に伝わって行く。この問題の連鎖から如何に逃れるか、それが私たちカウンセラーが当面する問題である。

きょうだいが何人もいると、一番しっかりした長女や長男がやられる。一番愛され可愛がられるから親の問題もそっくり受け継いでしまうのだ。一人が問題を引き受けると他のきょうだいは難を免れるところがある。

長子が厳しく叱責されて育つと末っ子は叱責されないこともあるが、反対に何も言われず甘やかされ無視されていることもある。愛着の問題が形を変えて現れるのである。

愛着をあきらめたら孤独という問題が出てくる。孤独は愛着の裏側にある問題である。

このような行動パターン、つまり文化の問題は身についた習性だから変えようがない。文化、行動パターンが変わらないように人の心は変わらない。その変わらないものをどのようにして克服したら良いのかそれが問題である。

私は猫好きだから野良猫を飼って行動パターンの変化を見ている。人を避けるようになった猫はどんなに餌をあげても容易に触らせてはくれない。触ろうとするとすぐに身をかわして逃げる猫がいる。何年経ってもその習性は変わらなかった。でもあるとき、寝ている猫ののど頸を撫でてやったら気持ちよさそうにした。それまでは寝ていても私が近づくと逃げていた。世界猫歩きの岩合さんに習ってゆっくり動くと猫が怖がらないことに気づいた。ゆっくりした動きでいると猫が怖がらなくなり、何かしてほしいときは私の前をうろつき、時には身体をすり寄せてくるようになった。

ゆっくりした動き、やさしい態度が相手を安心させる。それは猫も人間も変わりないのではなかろうか。世代間継承でぎくしゃくした親子関係もゆっくり話を聞いていけば、状況がわかって解決の糸口が見えてくるのではなかろうか。猫と一緒に生活できる穏やかな心の生活、それをベースにしていかないといけないと思う。

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老いについて

老いても元気に過ごしていこうと考えていたが、いざ年を取ってみると予想もしなかったことが次々に起こって、老いとはこんなものだと実感するこの頃である。

まず、左手中指の関節が強く握った拍子に曲がったまま動かなくなった。さては老いて筋萎縮症になったかと思った。医学的には高齢者の筋萎縮症であるらしい。原因はいろいろあるだろうが、老化で起こったことだから病気と思わず、衰えてきたのだと考え治療は考えないことにした。体力も衰えてきた。最近体力を維持するためにできるだけ車を使わず歩いているけれど、地下鉄の階段の上りがきつくなり、歩く速度が遅くなった。女の人にどんどん追い越されていく。以前は女性が強くなって男と同じように力強く歩くと頭にきていたけれど、歩く姿は百合の花なんていう言葉は古語になってしまい、時代が変わったのだとあきらめることにした。そして老いを受け入れ、老化した自分のペースで生きていくことにした。

そして老化はエッセイを書くことにも及んできた。いつもあれも書いておきたいこれも書いておきたいと考えるけれど、いつの間にかそれが頭の中から消えている。書く内容はいつも頭の中で考えておかないといけない。記憶の保持がむつかしい。ながら族がとうにできなくなっている。ながら族ができるのは若い証拠だ。

私は自分でスケジュールを決めて実行する性格が欠けている。だから、今まで思いついたらやることにして、それで結構やれてきた。まだ体力や気力があるうちにやれることはやっておかねばならない。そうしないといつか人に追い越されるのをあきらめたように、まあいいわと自分の人生をあきらめて空かすかの自分にしてしまうのではないかと心配するこのごろである。

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福祉の時代の公認心理師

冬寒かった割には桜の開花が早かった。桜の花が見頃の時公認心理師になるために現任者講習が行われ、それに参加して疲れた。ただ座っているだけだから身体は疲れなかったが精神的に疲れて、それが今も尾を引いている感じである。面接の約束を完全に忘れていたりしたので相当に深いところをやられていたようだ。ダンケにお出でになったのに何の応答もなかった方には本当に済まないことであった。春の錯乱であろうか。
講習の半分以上がAIによる講義であった。これが一番楽だったのが不思議である。一番疲れたのは2日目の精神科医の講義であった。AIによる講義は心の交流がないから頭だけ働いているが、生きた人が話をすると心が動く、それが面白くないと疲れるということがわかった。これは一つの収穫であった。
講習を受けた若い人の感想に公認心理師と精神保健福祉士とどう違うのか、同じではないかというのがあった。精神保健福祉士ではもう一つ不十分だから公認心理師を作ろうとしたと考えてもいいだろう。
小学3年生で終戦を迎えた私はこれまでの日本の歴史を思い起こした。
戦後の食糧難は戦中より激しくなったと記憶している。みんなが生活に困難を感じていた。隣国朝鮮で戦争が勃発し、日本は特需景気に沸いて、暮らしぶりは少しよくなった。隣の国の不幸で日本は救われたのだった。それから次第に生活は良くなったが、産業構造が変わり北九州の石炭産業は斜陽産業となった。斜陽産業は流行語になった。戦後の農地解放で田畑を失って貧しくなった百姓の家に生まれた私さえ大学に進学し大学院進学が可能になった。そして昭和36年(1961)池田内閣は所得倍増性格を発表した。また、その年国民皆保険制度は始まり国民の誰もが保険で医療を受けられるようになった。
それから30年たって経済的に豊かになり日本人のほとんどが中流意識を持ち、人の寿命もびっくりするほど伸びた。その結果高齢者をどうするかという福祉政策が問題になり、福祉の時代になった。社会福祉士ができ、精神保健福祉士ができた。高齢者の支援には医療や福祉の面だけでなく、提供するサービスをより良くフィットさせるために支援者の心理を査定する必要が出てきた。ここに福祉サービスを充実させるための公認心理師の役割が出てきたのだと私は考えた。
戦後焼土と化した日本は15年を経て復興し、それから医療の時代になり、今福祉の時代になった。福祉が充実し誰もが安心して生きられるようになると後どうなるのだろうか。次に何の時代になるのだろうか?
みなさんはどう考えられますか

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母親の祥月命日に当たって

今日3月7日は私の母親の命日である。
私が18歳、大学受験の初日、3月3日の夜脳溢血で昏睡状態になった。原因は明らかに私にある。入試の最初の時間は国語で、うっかりして時間に気づいたときまだかなり未回答の問題が残っていた。少し慌てたけれど一応時間内に回答することができた。最初の国語で時間を気にするようになったので後問題はなかった。
帰宅して試験はどうだったと聞かれたので正直に最初の国語の時間に慌てたと答えた。そのことが母親にはひどく心配になったのではないかと思う。
昭和30年頃大学受験生がみんな時計を持っているとは限らなかったので、試験時間中今何時ですかと聞くように前もって教えられたし、実際その時間に誰かが時間を尋ねたので私もゆっくりしすぎていることに気づいて慌てたのだと思う。
受験に当たって時計も買ってやらなかったことを母親は不憫に思ったのであろう。わたしは、当時時計を持つなんて考えたこともなかった。大体周囲に腕時計をしている人がいなかった。参考書だって英語の文法の本を1冊買ってもらっただけで、それ以上望むことはなかった。
母親が私のことをそれほどまでに心配していたことを母親が倒れて初めて気づかされたのだった。しかし、当時は驚きも悲しみもなかった。今もないのかもしれない。
母親を湯潅するというとき、畑に行って野菜を取って来るように父親に言われ、帰ってくると母親はすでに丸い桶の中に入れられていた。誰か親戚のおじさんにお母さんを見ておくかと言われ見たいと言った。母親は丸い棺桶に押し込められその顔は死に顔で生前とは全く違っていた。そこには母親はいないと思った。それが母親との別れであった。それ以来母親は夢にも出てこない。うっすらとした母親らしい影が昨年夢に出てきたが、母親という確信はない。棺桶に入れられた母親の顔が今も目に浮かぶ。
でも私は自分でも明らかにマザコンだと思う。私の家内は母親に似ていると自分では思う。性格は特に似ている。それに私は未だに母親が夏に使っていたゴザを持っている。いつ持ち出したかわからないが、母親の布団を片付けるとき、端っこがぼろぼろになっているゴザを捨てられないうちに密かに自分のために取っておいたのだった。何回も引っ越しをしているけれど未だに押し入れのどこかにそれがあるはずだ。私にとってゴザはマザコンの象徴である。
私の心の奥深くには母親が住んでいる。若しかしたら母親のたましいは私の身体の隅々に行き渡って私の行動を支配しているに違いない。母親は、この子は私に接するに時間が他のきょうだいより短いから何か余分にしてやるのだと言ったそうだ。機会があれば人に何かをしてあげる。それが私の行動の原則の一つである。何かしてあげて見返りを求めることは期待しない。しかし、人事面では私がやってあげたことは皆失敗した。就職の世話とか指導ということは全くうまくいていないと思う。きょうだいから離れて生まれた末っ子の甘やかしが私に必ずしもプラスでなかったように、私の人への過剰な思いやりやサービスがよい結果を生んでいないと思う。
私の心の中にあって私を操っている母親のたましいの呪縛からなんとしても逃れたいと思うようになった。可能だろうか。それが今年の祥月命日に思ったことである。

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ひと仕事終わった後のうつ状態

ひと仕事終わった後のうつ状態

昨年11月横浜の学会で東洋英和女学院大学の篠原道夫先生にお世話になり自主シンポジュウムで自分の考えを発表し、岸良範先生、金城孝次先生、弘中正美先生コメントを頂いた。テーマは面接構造の再検討ということであったが、面接の内的構造を話しているうちに結論として、対話的心理療法について述べた。それは自分が長年かかって到達した私の独自の心理療法の方法であった。それはフロイトともユングともロジャーズとも違う私の独自のものである。このやり方はユニークなものであると思っている。

対話的心理療法というのは心の奥深くの真実のところで対話するもので、これは訓練無しではやってはいけないものではないかと思っている。
日常生活では常識が大事である。師匠の河合隼雄先生は「嘘は常備薬、真実は劇薬」と言った。相手の話を「そうね、そうね」と相手に合わせて聴いてあげる、それが共感と受容である。これは時として嘘の対話である。「だけど、本当はこうじゃないの」と本当のことをいうとぎくりとなってしまう。まさに嘘は常備薬、真実は劇薬」だ。

「あなたはお母さんのことは乗り越えたと言うけれど、あなたのお母さんのおかしさについての説明が聴いている私にはしっくりきません、もっとわかるように説明してください」というと途端に彼女は困ってしまった。彼女が乗り越えたとしていたのは、考えないようにしていたに過ぎないのだった。他人にもわかるようにしっかり説明して笑えるくらいに客観化してはじめて乗り越えたことになる。

こういう真実の対話をしていく心理療法のやり方に私は到達し、人生の一つの目標を達成したと思ったら私はうつになった。この後に自分が命がけで取り組むべき課題が無くなってしまった。目の前は空白となった。そしてうつになった。日頃の忙しさにかまけてうつは背後に潜んでいた。春の陽射しが感じられるようになって心にも春が来たように感じてこの文章を書いている。

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